河童の言い分
一週間前の涼しさがウソのような猛暑が続いてます。
昨夜秩父は雷雨になり、稲光がすごかった。
玄関で寝ていたワン公2匹は対照的で、兄ちゃんのタローは稲光も雷鳴も
気にもせずスヤスヤ。一方一歳になったばかりのジャッキーは初めての
光と轟音に耳をすっかり垂れてオドオド「クーン」と兄ちゃんに擦り寄り
甘えて可愛かったです。
雷雲が去り小降りになったころヨッシーのご就寝タイムです。
暑苦しく寝返りしながら・うつらうつらしているとサッシ窓に稲光とともに
不気味な影が・・・

誰だー 「心掛けが悪い少年の数十年後は河童の頭みたいだ」なんぞと
俺様のオシャレなヘアースタイルを笑うフトドキ者は そんな奴はシリコダマ
を抜いちゃるどー

壊れたPCの画像は諦めていたけれど、デスク周辺を整理してたら
こんな懐かしいのがCDに落としてあった。
左上が河童に近づいた昔の悪ガキ(笑) 右は10年前のヨッシー家三代のカッパ
「おー!!ヨッシーか、久し振りじゃのう」
「ってオラ、カッパの知り合いはいませんが」
「お前が悪ガキのころ川で散々遊んでやったの憶えてないか?まぁいいや
シリコダマは挨拶代わりの冗談だよ。今夜会いに来たのはな、なにやら
いじめがどうだのってこの間読者からコメントがあったろ」
「うん 昔もあったよって返信した」
「お前、大人が怖いから限度を越えなかったって言ったろ」
「うん」
「それだけじゃなかんべ」
「???」
「お前達が子どもの頃はまだ、可哀想だと思う憐れみの心が残っていたんだよ」
それから河童が切々と窓の外で話しだした。
あの頃、子ども達は野山或いは川や海で遊び呆け、体力や体格の順位で上位の者が
下位の者の面倒を自然にみたことや、大人から買い与えられた生き物(ペット)ではなく
自分達の手で捕らえた昆虫、小鳥や魚を遊び相手にし、時には食った。
そして飼っても大抵は数日で死なせてしまった子ども達。
こういった体験を通じて弱い者や生命あるものへの憐れみが自ずと芽生えたはずだ。
お前達は「これ以上やったら相手が可哀想だ」と、いじめる連中の誰かが必ず言い出
し自発的にブレーキをかけていた。限度を越えると例え大将でもその後、皆から敬遠
され、今度は自分がツマハジキにされてしまったろう。
我らの棲家である川の汚染にも関係あるが
お前達の後の世代の子どもは、遊び場だった川や海は汚染され、原っぱや野山は
切り開かれて工場や住宅が立ち並び、ワシ等と共に居場所を奪われていった。
やがてCPゲームが登場し仮想空間で敵を倒し、自分が死ねば何度でもリセットで
生き返る。リアルな痛みや生死感とかけ離れて遊ぶようになってしまった。
そして遊びを通じての人との繋がりよりも、学業が優先される時代へ変化した。
自然を相手に暗くなるまで戸外で遊び、時には大人がみれば卒倒しそうな危険な
こともして遊んだのはお前達(昭和30年代生まれ)が最後の世代だったよ・・・
人も自然の一部ならいずれ自我を覚え、物事を考え始める思春期までの子どもの
本質は昔も今も変わらない。
子どもの遊び場を奪い、子どもを相手にしてまで今や莫大な商売をする。
発展という号令のもとに環境を変えたのは全てお前ら大人なのだ。
倫理や愛よりも全てに優先される経済という魔物に支配された人間どもよ
この社会が変わらぬ限り、我ら滅びる寸前の河童同様に子ども達の未来は
悲しい。
昔のカッパ少年たちの集合場所だった鎮守様
これは10年前の写真 当時実家で飼っていた柴犬のベルと可愛かった初孫
今は子供たちの歓声も消えて ひっそりしている
昨夜秩父は雷雨になり、稲光がすごかった。
玄関で寝ていたワン公2匹は対照的で、兄ちゃんのタローは稲光も雷鳴も
気にもせずスヤスヤ。一方一歳になったばかりのジャッキーは初めての
光と轟音に耳をすっかり垂れてオドオド「クーン」と兄ちゃんに擦り寄り
甘えて可愛かったです。
雷雲が去り小降りになったころヨッシーのご就寝タイムです。
暑苦しく寝返りしながら・うつらうつらしているとサッシ窓に稲光とともに
不気味な影が・・・

誰だー 「心掛けが悪い少年の数十年後は河童の頭みたいだ」なんぞと
俺様のオシャレなヘアースタイルを笑うフトドキ者は そんな奴はシリコダマ
を抜いちゃるどー


壊れたPCの画像は諦めていたけれど、デスク周辺を整理してたら
こんな懐かしいのがCDに落としてあった。
左上が河童に近づいた昔の悪ガキ(笑) 右は10年前のヨッシー家三代のカッパ
「おー!!ヨッシーか、久し振りじゃのう」
「ってオラ、カッパの知り合いはいませんが」
「お前が悪ガキのころ川で散々遊んでやったの憶えてないか?まぁいいや
シリコダマは挨拶代わりの冗談だよ。今夜会いに来たのはな、なにやら
いじめがどうだのってこの間読者からコメントがあったろ」
「うん 昔もあったよって返信した」
「お前、大人が怖いから限度を越えなかったって言ったろ」
「うん」
「それだけじゃなかんべ」
「???」
「お前達が子どもの頃はまだ、可哀想だと思う憐れみの心が残っていたんだよ」
それから河童が切々と窓の外で話しだした。
あの頃、子ども達は野山或いは川や海で遊び呆け、体力や体格の順位で上位の者が
下位の者の面倒を自然にみたことや、大人から買い与えられた生き物(ペット)ではなく
自分達の手で捕らえた昆虫、小鳥や魚を遊び相手にし、時には食った。
そして飼っても大抵は数日で死なせてしまった子ども達。
こういった体験を通じて弱い者や生命あるものへの憐れみが自ずと芽生えたはずだ。
お前達は「これ以上やったら相手が可哀想だ」と、いじめる連中の誰かが必ず言い出
し自発的にブレーキをかけていた。限度を越えると例え大将でもその後、皆から敬遠
され、今度は自分がツマハジキにされてしまったろう。
我らの棲家である川の汚染にも関係あるが
お前達の後の世代の子どもは、遊び場だった川や海は汚染され、原っぱや野山は
切り開かれて工場や住宅が立ち並び、ワシ等と共に居場所を奪われていった。
やがてCPゲームが登場し仮想空間で敵を倒し、自分が死ねば何度でもリセットで
生き返る。リアルな痛みや生死感とかけ離れて遊ぶようになってしまった。
そして遊びを通じての人との繋がりよりも、学業が優先される時代へ変化した。
自然を相手に暗くなるまで戸外で遊び、時には大人がみれば卒倒しそうな危険な
こともして遊んだのはお前達(昭和30年代生まれ)が最後の世代だったよ・・・
人も自然の一部ならいずれ自我を覚え、物事を考え始める思春期までの子どもの
本質は昔も今も変わらない。
子どもの遊び場を奪い、子どもを相手にしてまで今や莫大な商売をする。
発展という号令のもとに環境を変えたのは全てお前ら大人なのだ。
倫理や愛よりも全てに優先される経済という魔物に支配された人間どもよ
この社会が変わらぬ限り、我ら滅びる寸前の河童同様に子ども達の未来は
悲しい。

昔のカッパ少年たちの集合場所だった鎮守様
これは10年前の写真 当時実家で飼っていた柴犬のベルと可愛かった初孫
今は子供たちの歓声も消えて ひっそりしている
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